戦前「赤旗」守る
まだ「赤旗(せっき)」と呼ばれていた戦前。
全国に届ける要の部署で活動していた女性がいました。タイプ技術を習得し兄を頼って山口から上京した田中サガヨです。当時「赤旗」は活版印刷となり写真も載るように。最大時7千部の発行でしたが、回し読みされ実際には数万の読者がいました。持っているだけで逮捕、投獄、拷問の時代。捕まったサガヨも「如何(いか)なるいばらの道であろうと覚悟の前」だと。(『こころざしつつたふれし少女〈おとめ〉』)
印刷所から配布の拠点となる場所まで命がけのリレーは何度も。そこから先もしのばせ、手から手へと渡されていきました。反戦平和や生活向上を求める人びとの思いを込めて。
社会正義のための情報源
それは今に。
社会正義のための情報源。政治・経済の教科書。日本の社会進歩のためには、なくてはならない新聞―。「赤旗」の発行を守るために党中央が呼びかけた募金には激励のメッセージが添えられています。“貧者の一灯”を送るという年金ぐらしの読者も。日刊、日曜版とも党員の努力で配達集金が行なわれています。ベルギー労働党から「あなたたちには100万人の読者がある」と評価もされました。
各界から期待の声
▼創刊97周年に寄せられた談話には、裏金スクープをはじめ調査報道への評価とともに、民主主義や生活を脅かすものと連帯してたたかう役割を期待する声もあります。弁護士の角田由紀子さんは「いま私たちが直面している困難な毎日を打開し、そのさきにある希望の未来を現実のものにするために、『赤旗』の力はますます重要」だと。
「朝ごとに希望を探す赤旗(はた)届く」。時代とともに手段や方法は変われど、よりよき社会を胸に抱いたリレーはこれからも継がれて。
(潮流2/1)
昨年3月24日山梨県北杜市で志位議長
田中サガヨさんは、1910年に山口県豊浦郡豊田町で、酒造業を営んでいた家の三女として生まれ、養女に出されるなどたいへんに苦労して育ちました。兄の堯平さんからの社会の矛盾や社会主義の話に、サガヨさんは深く共感し、どんどん成長し、1932年に日本共産党に入党します。 当時の「赤旗」は、戦前でいちばん活動が盛んだった時で、活版刷りで写真も載せた。最大時には読者が7000人、回し読みされましたので数万の読者がいました。田中サガヨさんは、この時期の「赤旗」を、全国にとどける要の部署でがんばりました。「静かな、考え深い感じの人で、頼りがいのある魅力のある人」だったと。
特高につかまる
サガヨさんは、1933年12月27日、空腹で公園で手洗いの水を飲んでいるところを特高警察に怪しまれ、逮捕されました。ちょうど宮本顕治さんが逮捕された同じ時期のことです。 市ケ谷刑務所で、ひどい拷問をうけ、劣悪な待遇で衰弱し、35年4月にやせ細った状態で重体に陥り、執行停止になり、5月に東大病院で亡くなりました。24歳のことでした。
獄中でひそかにチリ紙に書かれた手紙に「警察は国家権力という絶対権力によって(支配)されています。この信念をまっとうする上においては如何(いか)なるいばらの道であろうと、よしや死の道であろうと覚悟の前です。お姉さん、私は決して悪い事をしたのではありません。お願いですから気をおとさないで下さい」
と。今も全国でサガヨの精神でがんばる共産党です。